福田眼科病院の離島検診

海を越えて、時を超えて、求められる離島医療の実現のために。

福田眼科病院の離島検診の歴史は、1963年にはじまります。 当時、九州大学の眼科教室に在籍中だった福田理事長が、故郷でもある長崎県五島列島の宇久島、小値賀島などの離島に出かけたのがきっかけでした。 内科や外科の診療は受けられてもより専門的である眼科医療が備わっている離島は、日本全国を見渡しても数えるほどです。 そこで、当病院では五島列島で暮らす方々のために離島診療を定期的に実施。海を渡る離島診療は、天候などに左右されることも多くあります。 しかし、あふれる感謝の気持ちで診療を待っていてくださる島の方々との出会いは、医者冥利に尽きる経験ともなっています。 また、こうした離島医療に取り組めるのはさまざまな方々の協力とチームあってこそ。 島で困っている方がいる限り、これからも離島診療の取り組みは続けていきます。

マスコミ掲載

2010年11月10日
NHK教育テレビ「福祉ネットワーク」で当院の離島検診が特集されました。

2009年10月26日
朝日新聞夕刊に掲載されました。
(→PDFで読む)

朝日新聞

2009年5月31日
西日本新聞に掲載されました。

西日本新聞

2008年8月19日
読売新聞に掲載されました。

読売新聞

2005年7月26日 西日本新聞「焦土を駆け抜けて」に掲載されました。

西日本新聞

7月17日早朝、佐世保港(佐世保市)からフェリーで約二時間半かかる、五島列島北端の宇久島(宇久町)。港から歩いて約十分の町立診療所前に、島民の行列ができた。「毎年すまないねえ」。顔なじみの列の島民が声をかけたのは、福田眼科病院(福岡早良区藤崎)の眼科医四人を中心とした総勢十八人のスタッフ。この日は年に一度の無料診療の日だ。

同病院理事長の福田量さん(74)=旧制長崎中63回生、宇久島出身=が始めた離島での医療奉仕は四十年以上続く。「目の病気で困っている人がいれば、どこへでも行く」が口癖の福田さんが医師を志した原点は「あの夏」にあった。

■父の死を出発点に

1945年8月9日、福田さんは爆心地から約3キロの長崎市新中川町の自宅で閃光を浴びた。爆心地近くの軍需工場で被爆した父・政平さんは重傷を負い、一命はとりとめたが、9月に入って異変が起きた。髪の毛が大量に抜け、歯茎から血が流れた。

病院も臨時救護所も被爆者であふれ、自宅療養するしかなかった。「おやじは医者にも見てもらえず、このまま死ぬのか」。途方にくれた一家のもとに、数人の女性が現れた。大阪日赤の看護師たちだった。栄養剤の注射、治療法の指示。焼け跡を走るその姿は、「地獄で出会った天使」に見えた。父はその年の九月十二日に息を引き取った。だが、彼女たちの献身的な姿は、福田さんの心に深く残った。
「僕は医者になる」その時、誓った。

■治療遅れて失明も

59年春、九大病院で眼科医としての第一歩を踏み出した福田さんに、古里・宇久島の開業医から誘いがきたのは四年後のことだ。
「眼科は専門医でないと十分な対応ができない。手伝ってほしい」
島では当時、適切な治療をすれば助かる白内障や緑内障の患者が、十分な治療を受けられずに失明するケースがあったという。医療環境に恵まれない離島の状況が、自宅で病に苦しんだ父の姿と重なった。

年に一度の診療に乗り出した。「気軽に受診してもらい、病気を早期発見するため」無料診療にした。一日に二百人前後の患者を診察。福岡から持参した薬を無料で処方し、必要なら佐世保の眼科医を紹介した。手伝いの同僚や先輩も皆、ボランティアだった。宇久島(宇久町)を手始めにさまざまな離島を訪問したが、最終的に隣島の小値賀島(小値賀町)と二島に絞った。現在は両町の要請で、無料診療に加え、隔月の保険診療も実施。「島の目の主治医」を自負する。

■初心を持ち続けて

65年、福岡・藤崎で始めた個人経営の眼科病院は、約80人のスタッフを抱える福岡県有数の眼科専門病院になった。01年からは福岡市医師会の看護専門学校長も兼務。しかし、いくら多忙になっても、宇久、小値賀の無料診療には自ら出向く。なぜ、そこまでこだわるのか。記者の問いに、表紙にかわいい「天使」の絵を描いた看護学校の学校案内を見せ、福田さんは「あの“天使”たちへの恩返し、ですかね」と穏やかな笑みを浮かべた。

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