|
||||||||||||||||||||||
|
![]() |
|||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||
![]()
|
||||||||||||||||||||||
![]()
7月17日早朝、佐世保港(佐世保市)からフェリーで約二時間半かかる、五島列島北端の宇久島(宇久町)。港から歩いて約十分の町立診療所前に、島民の行列ができた。「毎年すまないねえ」。顔なじみの列の島民が声をかけたのは、福田眼科病院(福岡早良区藤崎)の眼科医四人を中心とした総勢十八人のスタッフ。この日は年に一度の無料診療の日だ。 同病院理事長の福田量さん(74)=旧制長崎中63回生、宇久島出身=が始めた離島での医療奉仕は四十年以上続く。「目の病気で困っている人がいれば、どこへでも行く」が口癖の福田さんが医師を志した原点は「あの夏」にあった。 |
||||||||||||||||||||||
| ■父の死を出発点に 1945年8月9日、福田さんは爆心地から約3キロの長崎市新中川町の自宅で閃光を浴びた。爆心地近くの軍需工場で被爆した父・政平さんは重傷を負い、一命はとりとめたが、9月に入って異変が起きた。髪の毛が大量に抜け、歯茎から血が流れた。 病院も臨時救護所も被爆者であふれ、自宅療養するしかなかった。「おやじは医者にも見てもらえず、このまま死ぬのか」。途方にくれた一家のもとに、数人の女性が現れた。大阪日赤の看護師たちだった。栄養剤の注射、治療法の指示。焼け跡を走るその姿は、「地獄で出会った天使」に見えた。父はその年の九月十二日に息を引き取った。だが、彼女たちの献身的な姿は、福田さんの心に深く残った。 「僕は医者になる」その時、誓った。 ■治療遅れて失明も 59年春、九大病院で眼科医としての第一歩を踏み出した福田さんに、古里・宇久島の開業医から誘いがきたのは四年後のことだ。 「眼科は専門医でないと十分な対応ができない。手伝ってほしい」 島では当時、適切な治療をすれば助かる白内障や緑内障の患者が、十分な治療を受けられずに失明するケースがあったという。医療環境に恵まれない離島の状況が、自宅で病に苦しんだ父の姿と重なった。 年に一度の診療に乗り出した。「気軽に受診してもらい、病気を早期発見するため」無料診療にした。一日に二百人前後の患者を診察。福岡から持参した薬を無料で処方し、必要なら佐世保の眼科医を紹介した。手伝いの同僚や先輩も皆、ボランティアだった。宇久島(宇久町)を手始めにさまざまな離島を訪問したが、最終的に隣島の小値賀島(小値賀町)と二島に絞った。現在は両町の要請で、無料診療に加え、隔月の保険診療も実施。「島の目の主治医」を自負する。 ■初心を持ち続けて 65年、福岡・藤崎で始めた個人経営の眼科病院は、約80人のスタッフを抱える福岡県有数の眼科専門病院になった。01年からは福岡市医師会の看護専門学校長も兼務。しかし、いくら多忙になっても、宇久、小値賀の無料診療には自ら出向く。なぜ、そこまでこだわるのか。記者の問いに、表紙にかわいい「天使」の絵を描いた看護学校の学校案内を見せ、福田さんは「あの“天使”たちへの恩返し、ですかね」と穏やかな笑みを浮かべた。 |
||||||||||||||||||||||
| |
||||||||||||||||||||||
Copyright (C) 2000 Fukuda Ophthalmic Hospital. All Rights Reserved. |
||||||||||||||||||||||